ひげんぬの書き捨て場

書きたいことを書きたいときに

坂東祐大『耳と、目と、毒を使って』東京公演(2022/10月/23)

10月16日(日)@浜離宮朝日ホール
●プログラム

 言い訳の方法(2020/22)
 ドレミのうた(New Version)
 逆に、(2021)
 上手にステップが踏めますように(2022)
 残像と鬼(2022)
 声の現場(2021/22)
●出演
 多久潤一朗(フルート)
 LEO(筝)
 大石将紀(サクソフォーン)
 山中惇史(ピアノ)
 高野百合絵(ソプラノ)
 黒田祐貴(バリトン
 東紗衣(クラリネット
 大家一将(パーカッション)
 前久保諒(キーボード)
 矢部華恵(語り)
 有馬純寿(エレクトロニクス)
 パウゼ・カッティ(「逆に、」共同作曲)
 文月悠美(「声の現場」テクスト)

久しぶりにチケットを買って公演に足を運んだ。
東京も秋が深まってきて、ゆっくりと芸術を鑑賞するのにふさわしい季節となってきた。

今回訪れたのは、坂東祐大の「耳と、目と、毒を使って」。
坂東祐大は、1991年生まれの気鋭の作曲家。
東京芸大を首席で卒業し同大学院を修了。第25回芥川作曲賞を受賞して一躍音楽界で話題を呼んだ。
2016年には精鋭奏者たちによる「Ensemble Fove」を立ち上げるなど現代音楽に軸足を置きながら、米津玄師との共同編曲を多数手がけ、宇多田ヒカル「少年時代」の編曲、さらにはドラマ「大豆田とわ子」の劇判や映画「竜とそばかすの姫」の音楽担当など、ジャンルの垣根を越えた精力的な活動で知られている。

私が坂東を知るきっかけとなったのは、(ベターだが)米津玄師の「海の幽霊」。
とにかくそのサウンドに衝撃を受けたのを覚えている。
「コンテポラリー」と「ポップ」、時代は同じはずだがジャンルとしてなかなか相容れることのないこのふたつが絶妙なバランスで入り混じっている。
自分と同世代ということも手伝って及びようのない嫉妬すら感じたが、同時にこんな面白い作曲家と同じ時代を生きられる喜びを素直に感じた。
次世代の音楽の旗手として一目置かざるを得ない作曲家だ。
作曲家としての彼の公演に一度立ち会いたい、というのは東京に来た目的の一つだったが、今回こんなにも早くそのチャンスが巡ってきた。

会場は作品に使用するスピーカーが2階席を囲み、客席は1階のみ。
約450席の1階席はほぼ満席、しかも若い人々が少なからず散見された。
動員もかかっていたかもしれないが、この手の公演としては異例と言えるだろう。

プログラムは坂東による解説と譜例が添えられている。
作品のコンセプトを捉えるにはちょうど良い文字数であり、簡潔に要点がまとめられている。
冒頭では坂東自ら演奏会のコンセプトを話し、非常にスムーズに作品の世界へと誘導された。

今回の演奏会は、当たり前のものを少しずらしてみる、というのをコンセプトとしている。
私たちが気にも留めず、当たり前のように受け容れている秩序やルール、慣習。
そういったものを少し乱してみるというわけだ。坂東はこれを「毒」と呼んでいた。
それによって何か新しい知覚体験が広がるのではないか、それを音楽で実現できないか。
そうした狙いから今回の作品が並べられていた。

代表的なのは、「ドレミのうた」だろう。
「歌詞」はすべて「ド・レ・ミ」などの音名。最初は音名と実際の音が合っているが、徐々にそれらがずれてくる。
すなわち、「ド」と歌いながら音はシ♭だったり、ファ♯だったりする。
聴き手は徐々に混乱してくる。同時に、ジェットコースターに乗っているような、感覚を揺さぶられるスリルがある。

終曲の「声の現場」は、コロナ禍におけるアートとしても重要な作品になるに違いない。
テクストは、コロナ禍で生まれた言葉、異なる意味合いを帯びた言葉が中心となる。
それらが矢継ぎ早にモンタージュされて、切り替わたびに独特のリズムが生まれる。
こうした技法はどこか「エヴァンゲリオン」の監督・庵野秀明の映像とも重なるようなところもある。

全曲を通じて、当然ながら演奏者にとってはかなりの難儀を強いているはずだ。
しかしながら、それを難なく行っている(ように見える)とことに、奏者たちのレベルの高さがうかがえる。
同年代の若手奏者をはじめとした、精鋭たちが集められているが、おそらく制作の場では、坂東が求める指示を忠実に再現する一方、逆に坂東にインスピレーションを与えるような柔軟な相互作用があったのだろうと思う。

坂東が盛る「毒」は、中毒性を孕んだ毒だ。
音楽を成り立たせている秩序やルール、その境界を的確に捉えられているが故に、その境界を自由に、絶妙な塩梅で遊ばせることが出来るのだろう。
そのような意味で、坂東は「アート」の人間だと思った。

そういえば坂東は、今回の演奏会を自らの「個展」と言い表していたが、現代美術を意識しているのは間違いないだろう。
美術の世界では「現代美術」が比較的一般にも受け容れられているのに対し、どうも音楽の世界では「現代音楽」と言うと、未だに敬遠されることが少なくない。
坂東の音楽は、既成概念を乱すような「毒」がふんだんに盛られているのだが、一方で現代音楽にありがちな不快感がなく、むしろリズムやサウンドに爽快ささえ感じさせる。
稀有なバランス感覚を持った人間だ。
特に、ポップスにも対応し得るリズム、電子音響の扱い方は、その技術の高さを感じさせる。

果たして、毒のない芸術なぞ、芸術と言えるのだろうか、とさえ思う。
芸術による感動、メッセージ。そうした体験や結果を否定したいのではない。
一方で、どこかこれまでの価値観が怪しくなるような、揺さぶられるような体験が欲しくなる時がある。
自分の中での参考文献が少ない現代の音楽は、これが面白いと思う。
作曲家が創作によって提示する問題。まさにその問題提起の場に、自分が立ち会えるのは貴重なことだ。