ひげんぬの書き捨て場

書きたいことを書きたいときに

磯釣りの思ひ出

昨年の終わりくらいから釣りを始めた。
前からずっとやってみたくて、道具をアマゾンとかで少しずつ揃えていた。
最初は川釣りをしたくて、北海道で天然のニジマスなんかを釣って鮮度抜群のままBBQに持ち込んで食べたいと思っていた。いや、今でもやりたいと思う。
ところが川は結構釣りの難易度が高く、ただルアーを投げ込んでもまあ釣れない。
できれば管理釣り場ではなく自然の川で釣りたくて、そうすると山へ登るための装備もある程度揃えなければいけなくなる。

川釣りはちょっとハードルが高そうだ、と思って比較的初心者でも釣果の期待できる海釣りへ行ってみよう、と。
これが一度やってみると、まあ面白くて、今では父親を連れて海釣り公園でのサビキ釣りを月1~2回のペースで行っている。
最近は水温も上がってきてアジやイワシが釣れるようになってきた。

海釣りの何が楽しいかと言うと、海と触れ合っている時間がまず楽しい。
何か釣れないかな、どうしたら釣れるかな、と餌や仕掛けをあれこれ試してみるのも面白い。
何も釣れなくても、海をぼーっと眺めているだけで充足感が得られる。
朝4時くらいに起きて行っても平気で一日経ってしまう。

先日のゴールデンウィーク、天気も良いしどこかへ釣りへ行こうと思い立った。
けれど海釣り公園はファミリー連れで激混みするという情報を聞いて、それならば初の磯釣りへ行こう!ということで三浦半島へ行ってきた。

まず海が段違いに綺麗。
この日は快晴な上に風も落ち着いていて、最高に穏やかな環境で釣りができた。
磯で食べるコンビニ弁当は3割増しで美味しく感じられる。

肝心の釣りは、残念ながら釣果はほぼなかったし、海藻がかなり多くて仕掛けもだいぶ取られてしまった。
けれど総じて大変に楽しかったし、生きた自然と対峙している感じがして刺激的だった。

唯一釣れた謎魚。通行人から「それゴンズイ(毒魚)ですよ」と言われ、そうかな?と思ったけど念のためリリース。後から調べたらどうやらアナハゼじゃないかと。

父が釣ったネンブツダイをおすそわけしてもらい、揚げて食べた。なかなかに美味でした。


磯釣り、確実にハマりますね。
今度は釣果と一緒に報告できますように。

ブログを移行してきました。

このたび、ブログを有料の「Wordpress」から「はてなブログ」へ移行することにしました。
概ね記事の引っ越しもできました。
今後はこちらの方で更新していくので、どうぞよろしくお願いいたします。

終。

というのは冗談で、その決断に至った経緯を少し綴ろうと思う。
少し前くらいから移行しようかな、という思いは何となく頭の片隅にあったけど今回改めて決断に至った。
順調にいけば、Wordpressのブログは9月1日を以って閉鎖することになる。
移行したブログと見比べると、たぶんぱっと見そんなに前と変わらないんじゃないかと思うし、2020年から始めて約4年も経つわりに大した内容も量も書けていないが、一度始めたことを辞めるのは自分にとって大きな一歩だったのだ。
(それもこれもすべて自己満であることは百も承知。)

●有料から無料へ
さて、今回の移行で何が変わるのかと言うと、大きなところでまず有料から無料になるということ。
今使っているのは「Wordpress」で、運営のためのサーバーに定額で月1,000円ちょっと払っている。

全然元を取れていないじゃんか、なぜ有料にしたのか、という声が聞こえてくる。

ブログを開設するにあたりサーバーを作る必要があり、それを有料にするか無料にするかは最初に決めなければならない選択だった。
そこで色んなまとめサイトを見たりして、どっちを取ろうかと迷った記憶がある。
サーバーを有料にすることのメリットは、デザインの自由が効き、独自のサイトが作れる、そして収益化を見込むこともできるらしい。
どうやらオリジナリティにあふれ、本格的にブログを始めるなら有料の「Wordpress」がオススメということが分かってきた。
うん、確かに将来的にはブログがちょっとした稼ぎにつながったりして、月に1万でも2万でも稼げたら、今のお小遣いや老後の生計の立て方につながるんじゃないか!?
好きな場所、いつでも好きなように仕事ができる!
そして有料にすれば、「お金払っているんだから書かなければ!」という義務感も伴って、書くための促進剤になるのでは?と。

そんなことから有料のサーバーを立ち上げ、これもまとめサイトを見ながらひとつひとつ今のブログを作っていった。
もともとWebシステムに明るい方ではなかったし、右も左も分からない私が記事を書くに至るまでは結構苦労して何日かかかった覚えがある。
やっとブログを作れて、Googleで検索すると自分のブログが出てきたときはちょっとした達成感を感じた。

おそらくブログを始める少なからぬ人が持つであろう下心にも似た憧れを私も抱きながら、有料の「Wordpress」を始めたのだろう。

⚫︎もっと気軽に書きたい
ところが最近どうしても疑問に思うようになってしまった。
「有料ブログである必要って、今の自分にあるのか?」と。

ブログのデザインの自由性ってそこまで必要だろうか。
確かに自分の部屋のようにデザインをこだわって作れたら素敵ではあるけれど、そこまで応用できるWebデザインの素養もなければセンスもない。
結局今のデザインだって、ある程度テンプレを利用しているし、勉強してブラッシュアップしようという気力も沸かない。
無料ブログの方でも十分対応できるだけのテンプレがあるし、何より私がしたいのは書くことであってデザインではない。

ブログの収益化もそんなに必要?
そもそも収益化を実現するのはそう簡単ではない。
簡単ならきっともっと早めの段階で実現しているはず。
でも収益化のためには相当な記事数と、何より読者数が必要になる。
記事の内容もある程度テーマや方向性を定めた方がいいのだろう。
でも僕はあまり方向性も決めずに、とにかく書き留めたいと思ったことを書きたいのだ。

そう、シンプルに書き捨てるように書きたいのならば、無料ブログで事足りる。
有料ブログとか、収益化とかそもそも今の自分には向いていないのだ。
促進剤のつもりだった有料制もいつしか足枷となって、終いには月1,000円ちょっとのお金が出ていくことを気に留めなくなってしまった(たぶん目を向けないよう逃避していた)。
でも、たった1,000円、されど1,000円。
活用できる人にとっては「たった1000円」なのだと思う。
けれど今の私にとっては「1000円も」という感じ。
当たり前だけど、1,000円も積み重なれば結構なお金になる。
ネトフリの月額料よりは高いし、1年で10,000円ちょっとを注ぎ込むことになる。
それに見合うだけの活用は全く出来ていない(それなら釣り具を充実させる方がよっぽど有効な使い道だ!)。

書きたいことを書きたい、という本来の目的から知らず知らずのうちに離れ、それどころか書くこと自体が億劫になっていた。
もっと気軽に書こうよ、と原点回帰したいのです。

あまり欲張ってはいけないが、願わくばブログをやっている人同士でつながりができたらなと思う。
自分の書いた内容で「あ、それいいね」「こんなこともあるよ」と読者とのつながりができたら、なお嬉しい。

⚫︎ブログをリセットしたくなった。
これはイマイチ判然としてはいないのだけど、たぶんここらで一度自分のブログをゼロから見直してみたくなったんだと思う。
最近の記事内容はほぼ鑑賞録だけになっているし、ある程度まとまったことがないと書かないようになっていた。
日常で体験したことや書き留めたいことは本当はもっとあるし、それらを綴るために新しい場所が必要だ。
そんな気がしているのだ。

すでに行った有料→無料への引っ越しのなかで捨てた記事もいくつかある。
一時の思い付きから明らかに続いていないことや面白くないことは捨てた。
鑑賞録はほぼ生き残っているのも事実。
観たもの聴いたものの記録だから、これはこれで大事なんだろう。

⚫︎有料ブログは無駄だったのか?
以上の理由から、有料ブログを使う必要性は、今の自分にはないと結論付けた。
結論だけ見れば、シンプルにこう感じるかもしれない。
「はじめから無料で始めて軌道に乗ってきたら有料モードにすれば良かったんじゃないか。てか普通そうしない?」と。

うん、自分でもそう思う。
でも一度有料ブログをやってみたかったのだから仕方ない。
WordPressやってたらどうだったんだろう、とあとから変に後悔やわだかまりを持つよりは、気が向いた方から始めてみようかな、と思ったんだ。
だから、やっぱダメだとわかったら、気軽な気持ちで無料への移行もする。
それで良くない?

それが分かったのだから、有料ブログは自分の中では決して無駄では無かった。
まあそう気づくまでお金も時間もかかった感は否めないのだけど、出て行ったものは悔やんでも仕方ない。
そしてやればゼロからの立ち上げやデザインもある程度できるということは分かった。
ちなみに、「はてなブログ」にも有料版があって、収益化を図る際はこれに移行することも簡単にできるみたいだ。
万が一にも「はてなブログ」が破綻して存続の危機が出たら、新たな場所を探して引っ越せばいい。
そんなことは万に一つもないと思うけど。


とにかく、自分のなかでの一旦踏ん切りがついて、新たなスタートを切れて清々しい思いがしている。
中身も有用性もないブログだけど、暇なときに読んで共感したり参考にしたりする人が出て来たら嬉しいなと思う。

港町で聴く作曲家たちの対話(2024/1/20)

C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅
夏田昌和×アルノルト・シェーンベルク
2024年1月13日(土)於:神奈川県民ホール 小ホール

※開演前に夏田昌和と沼野雄司によるプレトーク付き
シェーンベルク:ピアノのための「組曲」op. 25(1921-23)
夏田昌和:ピアノのための「波~壇ノ浦~」(1997)
シェーンベルク:ピアノ伴奏付きヴァイオリンのための「幻想曲」op. 47(1949)
夏田昌和:ヴァイオリンとピアノのための「エレジー」(2022)
シェーンベルク弦楽四重奏曲第2番 op. 10より 第3楽章「連祷」(1907-08)
夏田昌和:女声とフルート、ヴィオラ、ピアノのための「美しい夕暮れ」(2023/新編成版初演)
シェーンベルク弦楽四重奏とピアノ、語り手のための「ナポレオンへの頌歌」op. 41(1942)
夏田昌和:フルートと録音された2本のフルートのための「春鶯」(2013/2023/新編成版初演)
夏田昌和:ソプラノとフルート、ピアノ、弦楽四重奏のための「岐路の夢」(神奈川県民ホール委嘱作品・初演)

ヴァイオリン:石上真由子、河村絢音
ヴィオラ:甲斐史子
チェロ:西谷牧人
フルート:丁仁愛
エレクトロニクス:有馬純寿
ピアノ:須藤千晴、秋山友貴
ソプラノ:工藤あかね
バリトン:松平敬

新年が明けてから(珍しく)コンサートへ足を運ぶ機会が増えている。
今回は横浜の神奈川県民ホールまで「C×C」を聴きに行ってきた。
ホールは海が臨める山下公園の目の前に位置し、贅沢な立地なのだが、私はこの公園で買ったばかりのケバブを鳶に追撃されて台無しになった苦い記憶もある。

「C×C」は故・一柳慧(2022年の逝去まで神奈川芸術文化財団の芸術総監督を務めた)の理念のもと、2021年から神奈川県民ホール(県民ホール)が行っている室内楽シリーズ。
著名な歴史的作曲家と国内外で活躍する気鋭の作曲家を対話・衝突(Composer×Composer)させ、新しい鑑賞体験を目指した企画だ。
過去に3回ほど重ねているが、そのどれもが刺激的なプログラムを展開している。

今回は、1968年生まれの気鋭作曲家・夏田昌和と20世紀の巨人にして問題児シェーンベルクを対峙させる企画。
両者の作品を聴き比べれば一聴瞭然だが、フランスとドイツ、和声と対位法、余白と構築、といった作風の違いが好対照を成す。
一方で、このコントラストは確たる軸があってこそ鮮やかになるものだと思うが、その意味でなかなかに考え抜かれたプログラム構成だった。

シェーンベルク作品のプログラムを作曲年代順に沿って並べてみると、
ゲオルゲの詩で無調への扉を開いた「弦楽四重奏第2番」
・十二音技法を確立する「ピアノ組曲
・政治的プロパガンダを含み、音楽的には調性と新たな手を結ぶ「ナポレオンへの頌歌」
・晩年作品「ヴァイオリンのための幻想曲」
独奏から声楽付き室内楽まで編成のバリエーションと器楽・声楽をバランスよく配置しつつ、作曲家の生涯においてポイントとなる作品が的確に選び抜かれている。
シェーンベルク作品の編成に寄せるように夏田作品が対置され、転換などの運営も考慮しながら編成が小さいものから大きなものへと聴かせるようにプログラムが組まれていた。

今回のシェーンベルク作品はどれも生で聴く機会は貴重なものばかりだが、特に「ナポレオンへの頌歌」が好演だった。
シェーンベルクというと特に器楽曲は楽譜の隅から隅まで作曲者の意識が及び、隙を全く見せない作品が少なくないのだが、この「ナポレオンへの頌歌」を含む室内楽伴奏付きの声楽作品は少し「遊び」のような余白を見せている。
YouTubeなどで政治家や芸能人の演説に全く別のBGMを付けて、「~風」「~に聞こえる」と演出する動画が流行っているが、「ナポレオン」はそれと似たような趣を感じたりもする。
そこまで行かずとも、ラジオドラマのような形で、ほとんど台詞に近い声楽にあわせて音楽がさまざまな演出を施しドラマを展開させる。
ちなみに、この「ナポレオンへの頌歌」は時のヒトラー批判の意味を含んだ作品だが、シェーンベルクは「この楽曲をプロパガンダ作品としてアメリカ政府に提供し、軍事キャンプ内を含む全土で演奏させること」「戦争が終結した後の開放されたヨーロッパの各国で巡業するため、独・仏・伊・露語ヴァージョンを作ること」(浅井佑太『シェーンベルク音楽之友社)を本気で考えていたらしい。
ガチガチの理論家・教祖である一方、実は機知と皮肉に富んだユーモアにあふれた人物だったのだろう。
こういう冗談のような構想を真面目に模索し、結局成し得ることはなかったというのも実にシェーンベルクらしいところである。
演奏には高度な技術を要するところもあるはずで、奏者は息をつく間もない集中力を求められたと思うが、一糸乱れぬ見事な演奏を披露していた。

一方の夏田作品で印象に残ったのは、ピアノのための「波~壇ノ浦~」、フルートと録音されたフルートのための「春鶯」。
ピアノ作品の方は、解説を見て驚いたが十二音技法を用いて作られている。
しかしながら、拍節的な構築性は意図的に避けられ、どこまでも響きの洗練さを求めるような、音の空間的なが広がりや余韻を残し、波の情景を連想させる描写性を備えている。
これはシェーンベルクの十二音技法の使い方とは全く異なる、むしろ邦人作曲家的な発想に近いのではないか。
そのせいか、聴いていて腹にすっと落ちるような感覚を持った、良い作品であり演奏であった。
「春鶯」は、エレクトロニクスも用いた非常に現代的な作品。
ウグイスの声を模したフルートの音色が、録音されたフルートと響き合いながらさまざまに変化してゆく。
素材はシンプルだがその変化のさせ方が実はかなり手が込んでいるようで、音高組織やリズムがフィボナッチ数列に従うように歌わされているとのこと。
当然そんな規則性は聴いている者には認知できないが(認知する必要もないと思うが)、印象として「日本的な作品だ」と感じてしまうのはいったいどこから来るのだろうか、と興味を惹いて止まない。

象徴的で心象風景の連想を響きにまとわせる夏田、同時にシェーンベルクの妥協を許さぬ凄味を改めて感じさせる、まさに「新しい鑑賞体験」だった。

客席は現代音楽の企画としてはかなり埋まっているように見えた。
「どうして現代音楽のコンサートにこんなに人がいるんだ」と冗談めいた苦情を言っている人もいたが、やはりこうした現代音楽はとっつき辛いことと引き換えに一部特権階級のためのものという、半ば選民思想のような認識が、まだまだ、まだまだまだ(×100)拭いされないのが現状だ。

現代音楽に限らず音楽が分かるとは何だろうか。
分からなくて結構、分からないからこそ面白い。
むしろその面白さがもっと開かれてしかるべきだろう。

 

東京の晩秋とニコラ・サーニの音楽(2024/1/18)

2023年11月17日(金)
イタリア文化会館コンサートシリーズ No. 8
誰もいない空間の向こうに ニコラ・サーニの世界

1. 誰もいない空間の向こうに(1999年)
2. ア・タイム・フォー・ジ・イブニング(1997年)
3. もうひとつの西方へ(2001年)
4. ロイコ(2022年)
5. ブラック・エリア・イン・レッド(2011年)


指揮:杉山洋一
フルート:泉真由
クラリネット:田中香織
ヴァイオリン:松岡麻衣子、石上真由子
ヴィオラ:般若佳子
チェロ:北嶋愛季
ピアノ:黒田亜樹、藤田朗子
打楽器:神田佳子

前回の更新が昨年3月。
季節は1月。いつの間にか辛い花粉症の春を越え、骨の髄から汗が染み出てきそうな蒸し暑い夏を耐え凌ぎ、やっと過ごしやすい秋に入ったと思えば、それも終わって冬に入った。
そして再び辛い花粉症の季節がやってくる。

2024年、新年明けましておめでとうございます。
旧年中の更新はたったの1回。
人間怠けていると、こうもあっという間に時間だけが過ぎるものか、と驚きを隠せない。

書けるものも、書くつもりもあったのに、忙しくて書けなかった、
なんて言い訳をするつもりは一切ない。
生活のなかでどんなに刺激を受けようが、それでどんなに頭の妄想が膨らもうが、やはり自分は書かなかったのだ。
約1年間書かなかった、という空白のページだけが刻まれている。
そんな足跡が振り返れるのも、日記やブログの一興だと思っている。
だからこれで良いのである。

この一年書くに値するものがなかったのか、書く気が起きなかったのかはさておき、久しぶりにブログに綴っておきたいと思った演奏会がある。
それが、イタリアの現代作曲家ニコラ・サーニの音楽である。

会場はイタリア文化会館
東京に住んでいた学生時代含め、初めて訪れた会場だ。
九段下駅を降りて皇居に隣接する北の丸公園の景色を眺めながらゆっくり進んで行くと、
左には日本武道館が、交差点を挟んで右には靖国神社が見える。
東京のなかでもずいぶん格式高いところにあるものだ、と思いながら、靖国神社を背にしばらく坂を下って行く。
しばらくすると、朱色を基調としたモダンな様相の建築が見えてくるのだが、それがこの文化会館である。

ニコラ・サーニは、イタリアの現代音楽作曲家。
電子音楽をカール・ハインツ・シュトックハウゼンらに師事し、現在は欧州のさまざまな音楽祭や歌劇場の芸術監督も務める巨匠だ。
プログラムが始まる前に、作曲者自身によるトークがあった。
作曲家や音楽家によくあることだが、まあよく喋るものだ、と思った。
非常にスラスラと自身の作品について語るのだから、聞いていて心地が良い。

さて、肝心の作品と演奏だ。
今回の作品は、すべて器楽曲。
ダンテの「神曲」の一節からとった「ロイコ」のように、音楽以外の具体的な物語や絵、詩などの情題材を基にした作品もあるのだが、音楽そのものは具体的なイメージを意図的に避けているように感じた。
抽象的な音や音群が響いてくるのだが、不思議とそのどれもが強靭な表現力を備えており、音に独特の質感や肌ざわりを作り出している。
彼の音楽が美術家マーク・ロスコーの影響を受けているというのは、よく理解できた。
「ブラック・エリア・イン・レッド」などは、音色の多彩性というよりも、むしろ陰影の濃淡で無限の広がりを見せたような音楽に近い。
自らの思い描く音に妥協がなく、虚飾なしにダイレクトに表現しており、同時に作品としての構成力ももたせる稀有な作曲家だと感じた。

プログラム解説は、指揮者の杉山洋一によるもの。
こういった作品の解説は、おそらくは研究者やライターでさえ悩ませるものだと思うが、説明不足にも過多にもならず、作品の鑑賞を導入してくれる非常に良い解説だった。
日本で再び取り上げられる機会があれば、また別の作品も聴いてみたい作曲家だ。

 

【雑記と鑑賞記】ブログのサーバーを止められそうになった話、テリー・ライリースペシャルライブ@神奈川県立音楽堂(2023/3/5)

 


少し時間もできたことだし、久しぶりに何か書こう、と思ってパソコンの前に座っている。
前回の更新は昨年の11月だから、約4か月ぶりの更新となる。
いやはや、自分で数えていて、継続力のなさに情けなくなる。
けれども、こうして自分の好きなことを好きなようにゆっくりと書ける時間が大変愛おしい。
ちょっと近況を踏まえつつ、昨日観てきた公演の鑑賞録でも書きたいと思う。

実は、前回の更新から今日までの間に、ブログ存続にかかわる大きな危機があったのだ。
このブログを運営(?)するにあたり、僕はサーバー代を月1,000円ちょっとくらいで借りている。
その支払いを、知らず知らずのうちに滞納していたのだ。
「知らず知らずのうちに」というのは、何となく責任逃れがしている感があるので、きちんと説明すると、サーバー代の支払いに使っているクレカが有効期限を迎えたのである。
もちろんクレカ自体は新しくしたのだけど、サーバーの支払いに登録しているクレカ情報の更新手続きを忘れてしまったのだ。
まあでも結局は家賃や電気代の滞納みたいなあれと同じ感じ。悪いのは僕だ。
あと15日ほど経っていたら、このブログごと強制的に抹消されていたのだとか。
あぁ、怖い怖い。
…と言いつつ、消えてもそんなに大した記事を残していないから、まあいっかとなりそうだけど。
とにかく滞納はよろしくないです、ごめんなさい。

そうこうしているうちに、いつの間にか年も明けて、東京へ越してから2月でちょうど2年経った。
なにか変わったかと言われると、凡そ変わったことはないのだけど、ようやっと環境の変化に馴染んできた気がする。
仕事は相変わらず気怠いが、以前ほど週末が終わる「終末感」(自分で言って気に入っている)もないし、何となく自分が住んでいる場所の景色に目が馴染んできた気がする。
ただ、この時期のスギ花粉は本当に辛い。今年は特に辛い。
つい一週間ほど前に数日札幌へ行ってきたのだけど、本当に天国のようだった。
スギ花粉がないというだけで、札幌への再移住を夢見る理由の説明は十分に果たしていると思う。

そんなスギ花粉に犯されながら、昨日は神奈川県立音楽堂までテリー・ライリーのスペシャルライブを観に行ってきた。
テリー・ライリーは今年6月で御年88歳。「ミニマル・ミュージックの父」として知られる、まさに生ける伝説だ。
ライリーのライブは今回の前にも2度日本初演作を控えた公演が企画されていたが、コロナ禍で2度とも中止。
精力的な巨匠は、その間に日本へ移住し、現在は山梨県に住んで創作活動を行っているそうだ。

ミニマル・ミュージック」は、60年代のアメリカで生まれた音楽ムーヴメント。
ライリーのほかにはスティーヴ・ライヒも進んでミニマル・ミュージックを作っているし、我が国では久石譲もその影響を多分に受けてミニマルな音楽を書いている。
「ミニマル」というだけに、極短い音型をひたすら繰り返すのが特徴で、モチーフや和声の複雑な展開を主とするヨーロッパの音楽とは離れた手法と言えるだろう。
と、言うと質素で変化も何もないつまらない音楽だと思われがちだが、むしろこの反復パターンが少しずつズレることで浮かび上がる変化が面白い。
この反復パターンの上にさらに重なる旋律(らしきもの)や、音色の変化が伴うことで音楽が非常に大きな広がりを見せる。
単なる一過性の現代音楽の現象にとどまらず、ジャズやロック、映画音楽などジャンルを越えて今に与えている影響も大きい。

ともすると、無機質な音楽に捉えられがちなミニマルであるが、昨晩のテリーのライブは、そのイメージを払拭するのに十分すぎるほどだったろう。
舞台上にはちょうど三角形をつくるように、グランドピアノ(ピアノ)と電子ピアノ(キーボード)2台が並べられ、キーボードの周囲にカホンなどの小さな楽器も置かれていた。
杖をつきながらゆったりと舞台上に現れたテリーは、色とりどりの模様の入ったパーカーとバンダナを巻いた、なんともポップでオシャレな恰好。
休憩なしの約1時間半。ライブなので、事前に曲目も発表されていなかったが、私が聴いたところでは以下の7曲が演奏された。
※5曲目と6曲目の順番が怪しいが、あしからず。

1曲目 テリーのピアノソロ(グランドピアノ)。ジャズ風の和音や即興的なパッセージが散りばめられ、個人的にはキース・ジャレットのケルン・ライブを彷彿とさせるような演奏だった。ライブで演奏されたなかでは、おそらくこれが一番長さをもった曲だったのでは。

2曲目 テリーのピアノ(グランドピアノ)・ボーカル、共演の宮本沙羅の太鼓やボーカルが加わる。1曲目が都会を連想させるような曲だとすると、この2曲目は同音・同和音の反復をベースに民俗的でプリミティヴな印象を与える。ラーガ教室も行っているテリーだが、インドやアフリカの音楽も取り入れた曲だったのだろうか。

3曲目 テリーと宮本のキーボード2台で。これぞ「ミニマル」と言えるような、極小の音型をひたすら反復しながらそのパターンを変化させる。シンセサイザーのように手元で音色を変えているのも面白かった。これを人の手で演奏するのは結構難しいはずなのだが、変にずれるところもなかったように思う。ところで、「ミニマル」を聴くと耳が繊細な人は気持ち悪くなって途中で退席したりすることもあるが、昨日観たところではそのようなお客さんもいなかった。

4曲目 iPad2台を使った音楽。スピーカーからさまざまな音響が発せられて、多重録音のように響きが重なっていく。iPadでは各音響を出すタイミングを操作していたのだろうか。

5曲目 ピアニカ2台を使った曲。バグパイプ風のドローン(持続音)の響きが印象的。テリーが、鍵盤ハーモニカで即興的なパッセージを織り込みながら巧みに操っていた。

6曲目 テリーのピアノに宮本のパーカッション(カホン)が加わる。リズミカルで、蒸気機関車を彷彿とさせるような、ブギウギ風の音楽も感じさせる(このあたり素養がないので違っていたらすみません)。

7曲目 テリーと宮本のキーボード2台。左手の反復パターンをベースに、キーボードの音響効果で無数の光を放射するような音が広がる。

以上がそれぞれの曲から受けた印象だ。
とにかく無数の音楽がジャンルレスにテリー・ライリーという一人の人間のなかに流れ込んでおり、それらが非常にポップな色を帯びて表れてくる。
そういえば昨日のお客さんたちも、クラシックの評論家もいながら帽子をかぶった若者からご老人、ご夫婦や外国人の家族連れなどとにかく幅広い客層でいっぱいだった。
それだけこのテリー・ライリーの音楽のもつ器が大きいというのか、あのサンタクロースのような長い髭がよく似合う人柄を感じさせるような、温かい響きに包み込まれるような音楽だった。

テリーの演奏で印象的だったのは、アコースティックな音色が非常に芯を食った音が出ること。
特にピアノを弾くときの和音の響きがとても心地よく、同音連打や速いパッセージも一音一音輪郭と芯がくっきりとした音を出す人だと思った。
また、昨日使われていた音楽堂のピアノ(スタインウェイ)が良かった。
年季は入っているが、音楽堂の歩みの深さを感じさせる音で、状態もよく保たれている。
このホールのキャパと音響によく合った響きを出すなあと思った。

ライブで良い音楽を味わったあとで、一杯飲みたいような気分に浮かされながら横浜の街を少しぶらついた。
昨日の横浜は海の湿気も混じって生温かくも、春を感じさせる爽やかな夜だった(花粉さえなければ)。

音楽堂のロビーでは昼間の公演のアーティストたちによる展示も開催されていた。
音楽堂の概観。歴史あるホールだが、造形はモダン。
みなとみらい地区は近年こんなロープウェイもできたりして、夜の光が一層明るくなった気がする。

久しぶりの投稿で少し長くなってしまった。
普段から書きたい気持ちはあるのだけど、実際には誰も見ていないと分かりながら「見られるかもしれない」という意識のもとで何かを書くには、落ち着いた時間と体力が必要だ。
少し書き溜めて次の日に回しても、平日の仕事帰りは「あー、疲れた」といっては「うーん、ちょっと飲みたいな」となってしまう。
そして次の日に回し、さらにその次の日に、、と日が経っていつの間にか記憶も感覚も色褪せて、書く気力も失せてしまう。

まあそんなことで更新の頻度は相変わらずひどいものだが、自分の好きでやっているブログだし、書き続けることが大切だよね、と思いながら細々と続けている。

【過去の演奏会から】東京二期会《ルル》(新制作)(2022/11/6)


20世紀オペラの傑作にして問題作、アルバン・ベルク《ルル》東京二期会の新制作で上演されました!
2020年に上演が予定されていましたが、コロナの影響で延期しての開催。
コロナ感染の広がりや指揮者の来日が危ぶまれるなか、まずは本当によく幕を開いてくれたことをありがたく思いました。

指揮: マキシム・パスカル
演出: カロリーネ・グルーバー
装置: ロイ・スパーン
衣裳: メヒトヒルト・ザイペル
照明: 喜多村 貴
映像: 上田大樹
振付: 中村 蓉
演出助手:太田麻衣子

舞台監督: 村田健輔
公演監督: 佐々木典子

ルル:森谷真理
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:増田弥生
劇場の衣裳係、ギムナジウムの学生:郷家暁子
医事顧問:加賀清孝
画家:高野二郎
シェーン博士:加耒 徹
アルヴァ:前川健生
シゴルヒ:山下浩
猛獣使い、力業師:北川辰彦
公爵、従僕:高田正人
劇場支配人:畠山 茂
ロダンサー:中村 蓉

ルル役は森谷真理冨平安希子ダブルキャスト
私は8月31日の森谷ルルを鑑賞しました。
森谷氏は当年に二期会を退会し、今後のソロ活動の展開がますます期待されるソプラノ。
この難役を歌い、演じる切る様は見ごたえがありました。
指揮は、ザルツブルク音楽祭にも登場したフランスの俊英マキシム・パスカル
日本では2019年の黛敏郎金閣寺》を成功に導いたことで一躍注目を集めました。
隔離生活を終え、充実したリハーサルを終えて公演に臨んだようです。

オペラ《ルル》は、十二音技法で書かれたオペラ。
無調、十二音技法というと、恐怖や不安を煽り、象徴するような音楽に思えますが、
ベルク手にかかると見事にオペラとして成立します。
その音楽は充足感に満ち、オシャレですらあるのです。

1.アルバン・ベルクについて

(結構イケメンでしょう?)
アルバン・ベルクAlban Berg(1885-1935)は、19世紀末から20世紀のウィーンに生きた作曲家。
シェーンベルクウェーベルンとともに「新ウィーン楽派」と呼ばれる一派に数えられます。
彼らはシェーンベルクを中心に無調、十二音技法と音楽の新機軸を打ち出しますが、そのあまりにも前衛的な響きは聴衆を煽動し、度重なるスキャンダルを巻き起こします。
一方、彼らに続く作曲家たちには大きな影響を与えて、20世紀音楽の歴史を大きく動かしました。

私が思うに、ベルクは新ウィーン楽派のなかでも最もオペラの才を発揮した人物でしょう。
《ルル》の前には無調のオペラ《ヴォツェック》を完成させ、当時にして自動車を購入できるほどの成功を生み出しています。
おそらくその才能は、彼が幼いころからこよなく愛した文学とも関わっているのでしょう。
《ルル》も《ヴォツェック》も、ベルク自ら原作から台本を書き上げていますし、非常に多くの歌曲も残しています。
また、テクストが付いた音楽に留まらず、《ヴァイオリン協奏曲》や《抒情組曲》などの器楽作品では、愛人へのメッセージが隠されていたことが後の研究で明らかになっています。

ベルクの音楽的インスピレーションに、文学や物語は欠かせない存在だったのでしょう。
その私生活や音楽を聴いていても、没ロマン耽美という言葉がピッタリ。
(ちなみに青年時代には女中との私生児をもうけていたり、ギムナジウムの卒業試験に落ちて自殺を図るなど、なかなかに破天荒な行動を起こしています。)
イメージとしては、どっぷりとロマンに溺れ、終いには「あぁ、愛と死はひとつなのだ」とか言ってそう。
作品の数々は実に、劇的な要素に満ち、音楽は前衛的な手法を用いながら、ねっとり、濃厚なロマンが薫るのです。

2.ベルク《ルル》概要

《ルル》は、アルバン・ベルク(1885~1935)が残した最後のオペラ。
先ほども述べたとおり、音楽は「十二音技法」を用いて書かれています。
「十二音技法ってなんぞ?」というのを説明すると、それはまた一個別の記事になってしまうので、
ひとまずここでは20世紀の前衛的な音楽の作曲法とでもしておきましょう。
聴けば明らかに、我々が普段耳にするような音楽(調性音楽)とは違うのが分かると思います。

台本は、ベルク自身によるもの。
ドイツ表現主義の先駆者フランク・ヴェーデキントの戯曲『地霊』(1895年)と『パンドラの箱』(1904年)を原作にしています
ベルクは《ルル》を全3幕のオペラとして構想していましたが、3幕の途中までオーケストレーションを書いたところでこの世を去ってしまいました。
死の前年、ベルクは「ルル組曲」という5曲から成る演奏会用のダイジェスト版みたいな作品を作っていますが、2幕版で上演する場合、通常この組曲から最後の2曲を取って演奏されます。
今回の二期会オペラも、この2幕版で上演されました。

ちなみに、《ルル》はその後長いことベルク未亡人によって封印され未完となっていましたが、
ひそかに補筆の計画が進み、ウィーンの作曲家フリードリヒ・チェルハ(*1926 ※存命です)が約12年かけて補筆・完成させます。
これが通称「チェルハ版」。
初演は1979年、パリ・オペラ座ピエール・ブーレーズが指揮し、パトリス・シェローの演出によって行われ、大きな反響を呼びました。

前衛的だからと言って構えることなかれ、先ほど申し上げたとおり音楽はねっとり、濃厚なロマンが漂います。
ちなみにこの《ルル》は、新しいもの好きなベルクの趣味も垣間見え、アルト・サックスやドラムスといった楽器、幕間にはサイレント映画による劇が描かれます。
非常に現代的な手法が取り入れられたオペラだと思います。

詳しい音楽的な説明は省きますが、この幕間劇を境に、音楽も劇も鏡のように対置される構成となっています。
すなわち、物語と音楽が密接に結びつき、非常に手の込んだ作り方をしており、多層的なオペラとなっています。
また、前衛的な音楽の手法を用いながら、伝統的な響きや作劇法ともしっかりと手綱を保ち、オペラのエンターテイメント性も味わえる作品なのです。

3.公演レビュー

さて、色々と背景の説明が長くなってしまいました。
どうも《ルル》になると、その作品やベルク自体の面白さを述べずにはいられません。

今回、演出は非常にこの作品を読み込んで作られたものに思えました。
面白いのは、ルルを取り巻く男役が、誰もルルに触れない(触れることができない)のです。
演出上軽く触れる瞬間はありますが、他の演出をYouTubeなどで見ると分かりますが、ボディタッチなんてもんじゃないほどルルの魅力に取りつかれた男たちはルルを求めて触れるのです。
その辺りが、今回の演出では至ってドライに描かれています。
男たちが触れるのは、ルルのマネキン。
すなわち、男たちが求めるのは自らが描いたルル像だけなのです。
その像は蜃気楼のように触れたかと思えば再び離れてゆく。
そして、唯一ルルに触れるのは、ダンサーの「ルル」だけ。
ダンサーは、ルルの魂や無意識、あるいはルルの子どもの頃とも捉えられるでしょう。
ルルに触れるラストの瞬間、見事だと思いました。

指揮のマキシム・パスカルは、この音楽が持つ色鮮やかさを遺憾なく出してくれていました。
フランス系の指揮者が《ルル》を振ると、こんな風になるのか!と新たな発見がありましたね。
(全体的な印象ばかりで、もはや細部は記憶の底に埋まってしまいましたが。。。笑)

いつかまた、再演のときがあるでしょうか。
私にとっては結構好きなオペラなので、機会があればまた訪れたいと思います。

【過去の演奏会から】サントリーホール サマーフェスティバル2021「アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)~(2022/11/5)

2021年8月24日(火)コンテンポラリー・クラシックスサントリーホール大ホール
●プログラム
ヘルムート・ラッヘンマン(1935~ ):『動き(硬直の前の)』アンサンブルのための(1983/84)
マーク・アンドレ(1964~ ):『裂け目[リス]1』アンサンブルのための(2015~17/19)日本初演
ピエール・ブーレーズ(1925~2016):『メモリアル(…爆発的・固定的…オリジネル)』ソロ・フルートと8つの楽器のための(1985)*
ジェルジュ・リゲティ(1923~2006):ピアノ協奏曲(1985~88)**
マティアス・ピンチャー(1971~ ):『初めに[ベレシート]』大アンサンブルのための(2013)日本初演

●出演
指揮:マティアス・ピンチャー
アンサンブル・アンテルコンタンポラン
フルート:ソフィー・シェリエ*
ピアノ:永野英樹**

書いてなかった言い訳をさせていただくと、正直なところあの日体験した演奏、音が何だったのか、自分のなかで言語化できずにいました。
あのときから時間が経ち、記憶の鮮度が褪せたいまとなってはという話です。

そういえば、(これも)余談ですが、最近女優の中谷美紀さんがルイジ・ノーノのオペラ鑑賞記をInstagramで綴っているのを読みました。
率直な自己体験を言葉に綴る観察の鋭さ、作品に対する眼差しの深さ、感受性の豊かさ、そういったものすべてが溢れ出る文章に驚きました。
それを鑑賞からあのスピードで紡ぎだせる文才には脱帽しかありません。
一流女優のレビューには遠く及ばないと知りつつ、あの日の体験を振り返ってみたいと思います。

ラッヘンマンは、彼の代名詞といいますか、特殊奏法で噪音(ノイズ)を駆使した作品。
しかし、この日の演奏には耳をつんざくような不快感はなかった。
作曲はcomposeと英語で言いますが、「com~一緒に」「poseー置く」という語から成ります。
つまりは、諸部分を組み合わせて、構築するのが(西洋でいうところの)作曲なわけです。
そういう意味では、ラッヘンマンの作品も楽音と噪音をひとつの集合体へ構築する作品に思えました。
楽音/噪音(ノイズ)、始まり/終わり、その境界に切り込み、カテゴリーを曖昧にするような、不思議な体験でした。

リゲティのピアノ協奏曲では、ピアニストの永野秀樹氏が好演。
パリのコンセルヴァトワールを出て、フランスを拠点に活動する本格派です。
リゲティの作品はアフリカ音楽に影響を受け、非常に複雑なポリリズムが絡み合います。
あの複雑な楽譜を解き明かし、ひとつひとつのリズムや音色を分けて弾くのは、すさまじい聴感覚と触覚(=指)だなあと。
また、解説にもありましたが、ピアノの平均律とホルン、トロンボーンの自然倍音がぶつかりあうのは特殊な音空間を演出していました。

最後のピンチャーの作品は、終演後の静寂が特別な時間に感じられるような秀逸な一曲。
曲の終わりにも関わらず、その静寂は再び何かが立ち上がりそうな予感を孕んでいるようでした。
ドイツ系の指揮者、作曲家だが、非常に洒脱な作品を作る人だと思いました。
全体は非常に静かな空間を生み出し、そこから特殊奏法によってさまざまな色合いを帯びた音が生まれてくる様が繊細でした。
張りつめられた緊張感、誰一人として咳払いもすることなく守られる静寂。
これには観客も見事に作品に応えていたように思います。