ひげんぬの書き捨て場

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港町で聴く作曲家たちの対話(2024/1/20)

C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅
夏田昌和×アルノルト・シェーンベルク
2024年1月13日(土)於:神奈川県民ホール 小ホール

※開演前に夏田昌和と沼野雄司によるプレトーク付き
シェーンベルク:ピアノのための「組曲」op. 25(1921-23)
夏田昌和:ピアノのための「波~壇ノ浦~」(1997)
シェーンベルク:ピアノ伴奏付きヴァイオリンのための「幻想曲」op. 47(1949)
夏田昌和:ヴァイオリンとピアノのための「エレジー」(2022)
シェーンベルク弦楽四重奏曲第2番 op. 10より 第3楽章「連祷」(1907-08)
夏田昌和:女声とフルート、ヴィオラ、ピアノのための「美しい夕暮れ」(2023/新編成版初演)
シェーンベルク弦楽四重奏とピアノ、語り手のための「ナポレオンへの頌歌」op. 41(1942)
夏田昌和:フルートと録音された2本のフルートのための「春鶯」(2013/2023/新編成版初演)
夏田昌和:ソプラノとフルート、ピアノ、弦楽四重奏のための「岐路の夢」(神奈川県民ホール委嘱作品・初演)

ヴァイオリン:石上真由子、河村絢音
ヴィオラ:甲斐史子
チェロ:西谷牧人
フルート:丁仁愛
エレクトロニクス:有馬純寿
ピアノ:須藤千晴、秋山友貴
ソプラノ:工藤あかね
バリトン:松平敬

新年が明けてから(珍しく)コンサートへ足を運ぶ機会が増えている。
今回は横浜の神奈川県民ホールまで「C×C」を聴きに行ってきた。
ホールは海が臨める山下公園の目の前に位置し、贅沢な立地なのだが、私はこの公園で買ったばかりのケバブを鳶に追撃されて台無しになった苦い記憶もある。

「C×C」は故・一柳慧(2022年の逝去まで神奈川芸術文化財団の芸術総監督を務めた)の理念のもと、2021年から神奈川県民ホール(県民ホール)が行っている室内楽シリーズ。
著名な歴史的作曲家と国内外で活躍する気鋭の作曲家を対話・衝突(Composer×Composer)させ、新しい鑑賞体験を目指した企画だ。
過去に3回ほど重ねているが、そのどれもが刺激的なプログラムを展開している。

今回は、1968年生まれの気鋭作曲家・夏田昌和と20世紀の巨人にして問題児シェーンベルクを対峙させる企画。
両者の作品を聴き比べれば一聴瞭然だが、フランスとドイツ、和声と対位法、余白と構築、といった作風の違いが好対照を成す。
一方で、このコントラストは確たる軸があってこそ鮮やかになるものだと思うが、その意味でなかなかに考え抜かれたプログラム構成だった。

シェーンベルク作品のプログラムを作曲年代順に沿って並べてみると、
ゲオルゲの詩で無調への扉を開いた「弦楽四重奏第2番」
・十二音技法を確立する「ピアノ組曲
・政治的プロパガンダを含み、音楽的には調性と新たな手を結ぶ「ナポレオンへの頌歌」
・晩年作品「ヴァイオリンのための幻想曲」
独奏から声楽付き室内楽まで編成のバリエーションと器楽・声楽をバランスよく配置しつつ、作曲家の生涯においてポイントとなる作品が的確に選び抜かれている。
シェーンベルク作品の編成に寄せるように夏田作品が対置され、転換などの運営も考慮しながら編成が小さいものから大きなものへと聴かせるようにプログラムが組まれていた。

今回のシェーンベルク作品はどれも生で聴く機会は貴重なものばかりだが、特に「ナポレオンへの頌歌」が好演だった。
シェーンベルクというと特に器楽曲は楽譜の隅から隅まで作曲者の意識が及び、隙を全く見せない作品が少なくないのだが、この「ナポレオンへの頌歌」を含む室内楽伴奏付きの声楽作品は少し「遊び」のような余白を見せている。
YouTubeなどで政治家や芸能人の演説に全く別のBGMを付けて、「~風」「~に聞こえる」と演出する動画が流行っているが、「ナポレオン」はそれと似たような趣を感じたりもする。
そこまで行かずとも、ラジオドラマのような形で、ほとんど台詞に近い声楽にあわせて音楽がさまざまな演出を施しドラマを展開させる。
ちなみに、この「ナポレオンへの頌歌」は時のヒトラー批判の意味を含んだ作品だが、シェーンベルクは「この楽曲をプロパガンダ作品としてアメリカ政府に提供し、軍事キャンプ内を含む全土で演奏させること」「戦争が終結した後の開放されたヨーロッパの各国で巡業するため、独・仏・伊・露語ヴァージョンを作ること」(浅井佑太『シェーンベルク音楽之友社)を本気で考えていたらしい。
ガチガチの理論家・教祖である一方、実は機知と皮肉に富んだユーモアにあふれた人物だったのだろう。
こういう冗談のような構想を真面目に模索し、結局成し得ることはなかったというのも実にシェーンベルクらしいところである。
演奏には高度な技術を要するところもあるはずで、奏者は息をつく間もない集中力を求められたと思うが、一糸乱れぬ見事な演奏を披露していた。

一方の夏田作品で印象に残ったのは、ピアノのための「波~壇ノ浦~」、フルートと録音されたフルートのための「春鶯」。
ピアノ作品の方は、解説を見て驚いたが十二音技法を用いて作られている。
しかしながら、拍節的な構築性は意図的に避けられ、どこまでも響きの洗練さを求めるような、音の空間的なが広がりや余韻を残し、波の情景を連想させる描写性を備えている。
これはシェーンベルクの十二音技法の使い方とは全く異なる、むしろ邦人作曲家的な発想に近いのではないか。
そのせいか、聴いていて腹にすっと落ちるような感覚を持った、良い作品であり演奏であった。
「春鶯」は、エレクトロニクスも用いた非常に現代的な作品。
ウグイスの声を模したフルートの音色が、録音されたフルートと響き合いながらさまざまに変化してゆく。
素材はシンプルだがその変化のさせ方が実はかなり手が込んでいるようで、音高組織やリズムがフィボナッチ数列に従うように歌わされているとのこと。
当然そんな規則性は聴いている者には認知できないが(認知する必要もないと思うが)、印象として「日本的な作品だ」と感じてしまうのはいったいどこから来るのだろうか、と興味を惹いて止まない。

象徴的で心象風景の連想を響きにまとわせる夏田、同時にシェーンベルクの妥協を許さぬ凄味を改めて感じさせる、まさに「新しい鑑賞体験」だった。

客席は現代音楽の企画としてはかなり埋まっているように見えた。
「どうして現代音楽のコンサートにこんなに人がいるんだ」と冗談めいた苦情を言っている人もいたが、やはりこうした現代音楽はとっつき辛いことと引き換えに一部特権階級のためのものという、半ば選民思想のような認識が、まだまだ、まだまだまだ(×100)拭いされないのが現状だ。

現代音楽に限らず音楽が分かるとは何だろうか。
分からなくて結構、分からないからこそ面白い。
むしろその面白さがもっと開かれてしかるべきだろう。