ひげんぬの書き捨て場

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東京芸術劇場 マーラー《大地の歌》(2022/1/30)


最近観たもの②。
やっぱりオーケストラっていいなあ、と思えた演奏会だったのでご紹介します。

東京芸術劇場 マーラー大地の歌
指揮:井上道義
アルト:池田香織テノール:宮里直樹
管弦楽読売日本交響楽団

藤倉大:Entwine (日本初演)
シベリウス交響曲第7番
マーラー:『大地の歌

久しぶりの大編成のオーケストラ。
「オーケストラは大きければ大きいほど良い!」
というのは暴論ですが、やはり大編成のサウンドは心を躍らせます。
ひとりひとりのプレイヤーが結集してひとつの大きな音の波を形成する。
その波に揉まれるような感覚を味わいたいがため、私はオーケストラを聴きに行くのかもしれません。

プログラムも、それぞれ趣向が全く異なる曲目が並びました。
藤倉の日本初演作、シベリウス最後の単一楽章の交響曲、そしてマーラーの大作。
決してメジャーではないですが、オーケストラの魅力を存分に味わい尽くせる、贅沢なラインナップです。
チケットを比較的早い段階から売り出していたこともあってでしょうか、客席もほぼいっぱいに埋まっているようでした。

藤倉大《Entwine》

現代作曲界のトップスター的存在、藤倉大日本初演作品。
藤倉氏の作品は、現代音楽なのに(と言ってしまうのは、現代音楽に対する良からぬ偏見を植え付けてしまうので、非常に憚られるのですが、)総じて「耳ざわり」が心地よい。
日本の演奏会でも、最も耳にする機会の多い現代作曲家でしょう。

今作はコロナ禍で作曲され、昨年6月にケルン放送響で世界初演されました。
“entwine"は、英語で「絡み合う」の意味。
なるほど、大きなオーケストラのなかで、あちこちの楽器が互いに響き合う。
次第に周りの楽器を巻き込んでひとつの集合体になっては、また離れて個々の楽器が響き合う。
楽器間の「距離」や「空間性」が強く意識されて作られているようで、聴き手も強くそれを意識させられます。
そういえば、この日はファースト&セカンドのヴァイオリンも指揮者の両サイドに置く対抗配置。
藤倉作品だけでなく全編通してそうだったので、20世紀前後~現代作品を扱うプログラムとしては珍しいなあ、と感じていたのです。今や世界中あらゆる場面で問題となる「距離」。
それはこの現代作曲家にとっても創作上の大きなテーマとなったようです。
楽器間の物理的距離があることで(あるからこそ)生まれる、響きの「絡み合い」の妙、音響効果。
まさに藤倉ワールド全開!このテーマからもひとつの創作を生み出してしまう藤倉氏、やはり鬼才です。

指揮者の井上道義は、この作品の大きな流れを全身で指揮する、というより表現しているように見えました。
タクトを持たなかったのは、各楽器の細かいニュアンスまで手先で表現したいからか?
タクトを持つ・持たないって、どう違うのでしょうね。実は私もオケ全くの未経験者なので、詳しくないのです(新しいブログネタにしてみよう)。

シベリウス交響曲第7番》

シベリウス最後の交響曲
全体は楽章の切れ目がない「単一楽章」形式で、30分ほどの作品です。

私、シベリウスて実はあまり聴いたことがないのですが(すみません)、知っている作品から勝手なイメージを並べると、

透明感あるサウンド、甘美なメロディーなんかキラキラとした雰囲気(北欧感?)

まあそんな漠然とした感じだったのですが、この7番を聴いて少しイメージが変わりました(もちろん、初めて聴きました)。
全体は薄暗い雰囲気に包まれていて、「天上から降り注ぐ」よりは地の底から湧くような響きもある。
そこは、井上マエストロの作り方も手伝っていたのかもしれません。
新しいシベリウス体験となりましたが、これを語るにはもっとシベリウスを知る必要があるように感じました。

マーラー大地の歌

マーラー声楽付き交響曲の大作、「大地の歌」。
テノールの宮里直樹が好演でした。
なんともふくよかでリッチな声量、高い音の安定感も抜群です。
リート的というよりはオペラティックなマーラーを感じました。
オペラでは比較的イタリアもので登場する機会が多いようですが、おそらくドイツものも申し分なく、
むしろ日本では希少なワーグナー歌手やリヒャルト・シュトラウスの歌い手になれるのではないでしょうか。

対するアルトの池田香織は、明らかにリート的で、内的な世界を感じさせる歌い方。
ドイツ・オペラでも重鎮の池田氏ですが、この日の声量は抑え気味。
明るい高音域から深い低音域を自在に操り、ドイツ語独特の響きの変化に色を使い分けていました。

シンフォニー・ファンにとっての二大双璧といえば、ブルックナーマーラー
これまた全く個人的な話ですが、私ブルックナーには少し苦手意識ありますが、マーラーは結構好きでして。
あのカオスっぷりが、生で聴くとたまらんのです。
古典的な作曲家のオーケストラだと、各楽器の役割はおおよそ決まっている感じがあります。
(ヴァイオリンが主旋律で、ヴィオラが内声、チェロ&コントラバスがベース、みたいなアレです。)
ところがマーラーの場合、そのヒエラルキーは取っ払われて、オーケストラの各楽器が同等のエネルギーで主張してくる。
楽器のすみずみまでが駆使され、大編成のオケ全体がなにやら蠢(うごめ)きだすような感覚。
曲調の変化もやはり混沌としており、ものすごく綺麗なコラールを響かせたかと思えば、いきなり俗っぽい世界に飛ぶ。
各楽章の長さも、「ちゃんと算数できたんですか!?マーラーさん」という感じです。

井上の指揮は、そんなマーラーのカオスな世界観をそのまま剝き出しにしてくれたような演奏。
決して小綺麗にまとめたような感じではありませんでした。
いいなあ、マーラーのこの世界観。カオスだなあ。
と、久々に酔い痴れたのでした。