ひげんぬの書き捨て場

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【遠征記】ペーター・レーゼル讃(2021/11/18)


遠征記第2弾です(と言っても、札幌から約1ヶ月前の話ですが)。
10月16日愛知県・豊田市コンサートホール開催「ペーター・レーゼル ピアノ・リサイタル」へ行ってきました。

ペーター・レーゼルは、ドイツの巨匠ピアニスト。
冷戦時代にモスクワ音楽院で学び、早い段階から壁崩壊後に至る現在まで東独ドレスデンに拠点を置いて活動し続けてきた。
それだけにというのか。その演奏を東独の切れ味鋭い録音で聴くと、虚飾のない音がまっすぐに響き、
国際化の波にさらされることなく、ドイツ音楽の伝統の本流とも呼ぶべき信念を築き上げてきたことが分かる。
日本では紀尾井ホールでのベートーヴェンピアノソナタ全曲演奏などで一躍有名になり、多くのファンを作り魅了してきた。

何より、レーゼルの来日は今回が最後となった。
本来昨年に行われるツアーだったが、コロナ禍により来日キャンセル。
今回紀尾井は完売と知るが、この巨匠の音に生で触れたいという一心から、急きょ豊田まで駆けつけた。

豊田公演は、そのなかでもツアーを締めくくる大千秋楽。
プログラムは、レーゼルの十八番「オール・ベートーヴェン」。
前半に第10番、第8番「悲愴」の初期ソナタ、後半には第30番、第31番の晩年のソナタが並んだ。
紀尾井とも異なり、豊田独自のプログラムだろう。
なんとも最後を飾るにふさわしい、贅沢なラインナップである。

前半2曲では、円熟の境地をたっぷりと聴かせた。
録音では揺るぎないお手本のような演奏だが、それは幾分か影をひそめる。
しかしながらベートーヴェン演奏ではありがちな、テクニックだけの味気ない演奏とは一線を画す。
自然の造形美とでもいうのか。無駄がないが、味わい深い音と流れを一フレーズごとに象ってゆき、
温かく芯の通ったサウンドが、ホールを隅々まで満たすように溢れ出る。

この年輪を重ねた大樹のような演奏が、後半の晩年ソナタからはむしろ彩り豊かでフレッシュなサウンドを引き出すのには驚いた。
ベートーヴェンの後期ソナタ、特に30番以降となると、明らかにそれまでとは様相が異なる。
大規模な第29番「ハンマークラヴィーア」で、作曲家は所謂ソナタの型を究極のところまでを推し進めたのか、
第30番以降はソナタ形式は極度に凝縮され、むしろ後楽章のフーガや変奏形式が大きく広がっていく。
当然、演奏に求められるものも、第30番以前と以降のソナタでは異なってくるのだろう。
レーゼルの演奏は、構築性やスケール感もさることながら、明らかにそれを踏まえた上で旋律の流れを汲み取っており、複雑な和声変化から独特のロマン的色彩を作っていた。
到達点に達した巨匠というよりは、その先があることも予感させるような精神世界に浸った。

今回の会場である豊田市コンサートホールは、1004席の中規模ホール。
ソロや室内楽には特に適したホールで、同じ建物内には能楽堂も併設されている。
車のトヨタで有名な豊田市は、小さな町工場の雰囲気を携えており、辺りは自然も豊かな場所だ。
ソロや室内楽能楽など小編成の音楽に耳を傾けるには大変適した環境で、市民にとっても贅沢だろう。
今回はあまり時間もなく街を回る時間もなかったが、またの機会に訪れることにしたい。