ひげんぬの書き捨て場

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【東京春音楽祭2021】リッカルド・ムーティ指揮《マクベス》 (2021/4/21)

 

4月19日(月)、ムーティが振るヴェルディマクベス》(演奏会形式)を鑑賞しました。
少し前、4月に入ってからムーティの来日が決定し、業界内では結構なニュースとなっていました。
まずは無事来日、そして公演が行われたことを心から嬉しく思います。

以下は、当日のレポート。
会場に入った時から、特別な空気を感じた。
海外アーティスト、それもムーティクラスの生演奏に立ち会えることは、このご時世において伝説を目の当たりにするような感覚になる。

ムーティのみならず、最近ではバレンボイムも6月に来日が決定した。
これに続いて、海外アーティストの来日がスタンダードになっていくかというと、やはりそうもいかないだろう。
いまだに主催者や招聘元は模索状態が続いており、実際に入国手続きのための審査が通らないケースもあるとのこと。
14日間の隔離を経て、来日に至るまではそう簡単な道のりではない。
来日可能な基準も明確ではなく、あらゆるリスクや準備を踏まえた、難しい判断が求められることに変わりはない。
今回は来日決定~チケット発売~開催が非常に短いスパンで行われたことに加え、この時期にコンサートへ足を運ぶことは怖いという思いもあるのだろう、私は後方の席を押さえていたが、まわりはほとんど人がおらずかなりゆったりと鑑賞することができた。場内も、空席が少なからずあるようだった。
それでも開演前や休憩中はロビーにけっこうな人集りができていたのを見ると、お祭りを開く側もヒヤヒヤだ。
今回のように決行するのも大きな決断なら、安全を考慮して中止等の対応に踏み切るのもまた大きな決断。
気苦労が絶えないなか、本当にご苦労様の一言に尽きる。

恥ずかしながら私はヴェルディマクベスも、ムーティの指揮も初めて聴いた。
実はイタオペ、特にヴェルディはあまり通ってこなかったというのが正直なところ。
それでも、ムーティの指揮は圧巻だった。
指揮台という玉座に構え、そのタクトから文字通り音楽を引き出すのが目に見えるかのような、完全に音楽を掌握しきった指揮。
最初の一音から終わりまで一気に音楽が推進し、配色も過度に色をつけすぎず、ごまかしようのない音がまっすぐに響いてくる。
強弱、緩急、すべてがこの指揮者の一振りで変わる。オケも相当な集中力を注いでいたのだろう。
終始、ムーティがハンドルを握るスポーツカーに連れまわされるような感覚だった。

歌手は、マクベス夫人役のバルトリ嬢が好演。
どうもヴェルディの「マクベス」は題名役よりも、このマクベス夫人役がオペラ全体の力を握っているように思えてならない。
実際、ヴェルディはこの夫人役を演じる歌手を相当にこだわったようだ。
バルトリのどこまでも伸びるような歌唱力はもちろんのこと、もはや演技力というのだろうか、出だしの語りから不思議な妖艶さがある。
そして、マクベスを追い込む悪女ぶり、夢遊病と、演じる切る役の幅も広く、一節一節に真に迫るものがあった。

それにしても「マクベス」はシェークスピアの戯曲から、幾つもの歴史的名作を生んだ英文学の古典的存在だが、私の印象から言えばスコットランドを舞台にしたこの作品はシェークスピアのなかでも霧がかった暗い雰囲気を漂わせている。
しかしながら、ヴェルディの手にかかると、運命に翻弄される悲劇もここまで派手になるのかとつくづく感じる。
単純な比較で恐縮だが、やはりヴァーグナーなどに比べると、同じ悲劇でも絶望の淵、地の底といった表現は似つかわしくない。
むしろ、底抜けに明るく、花火のような一瞬の煌きとともに散っていくような、清々しささえ感じる。
このあたりはオーケストレーションや楽器、作劇法まで「ヴェルディマクベス」たる所以を知りたいところだ。

頭に強烈に残った印象を、まとまらない言葉で書くのはなかなか根気がいる。
今日は雑感として、こんなところで締めよう。