ひげんぬの書き捨て場

書きたいことを書きたいときに

音楽ともの書きと料理と ~徒然なるままに(2020/9/9)

今晩はタイ料理のカオマンガイを無性に食べたくなり、とある動画を参考に作ってみた。
味は良い。鶏のうま味が憎いほど効いている。麦酒が進む。


しかし、飯が少しばかり水気を帯び、鶏も火の入りが甘い。
一回の炊き込みでさっと仕上げるには、水の量の調整が必要だ。火加減もふだんの飯を炊くときと変えねばなるまい。
そんな欲が電子レンジで焼く鶏の脂とともにじわっと滲み出る。

日ごろ、何かとあらゆる物事を料理に例えて捉えている。
実は料理のベースは、シンプルな方程式「材料×調理法」だ。
概ねレシピ本の構成もそのようになっている。
これに、盛り付けや彩りなどの要素を付け加えるならば、途端にワーグナー顔負けの総合芸術だ。

その方程式は、そっくりそのまま文章の作り方にも当てはまるような気がする。
内容と構成。何を書き、どう組み立てるか。
推敲のときはこの2つを意識しながら見直す。
自分は何を書きたいのか、そこに無駄がないか、逆に足りていないものはあるか。
そしてそれらが適切に、分かり易く伝わるように組み立てられているか。

私の癖としてよくあるのは、盛り込む要素が多くなってしまう。
一文が口説くなり、全体として言いたいことが直に伝わらない。
これが全く料理でも同じであり、材料を入れすぎるあまり、味がぼやける。
調理の際に火入れやさじ加減を躊躇するあまり、仕上がりがもったりとする。
つくづく自分の性とは厄介なものだと思う。

よく、プロになれるわけでもないのに、楽器を習うことの意義は何なのか、ということを聞く。
しかし、その道の職業人になることだけが、楽器に触れる意味や目的ではない、と思う。

先日、自粛前に少し奮発したいときに行っていた店に久しぶりに訪れる機会があった。
相変わらず美味い料理を堪能したのであったが、以前はただ美味しいとだけ思っていた料理に、自分が作ったときとの細やかな違いが味から少し見えるようになったのである。
その料理人がどれほど味付けや料理の行程、香りづけに気を使っているか。その奥行きを捉える自分の中の網目が少しだけ細かくなったように感じたのだ。
もちろんそれが分かったからと言って到底その味を再現できるわけでもない。それでも、明らかに自分の味わい方、味の違いに気づいたのは私の中で大きな歓びであった。
それはきっと、子どもが新たな世界に触れる歓びと似ているのかもしれない。

これと同じことが楽器に触れることにも言える。
楽器を夢中になってやったことがある人ならば一度は体験したことがあると思うが、自らが感動する演奏家のそれに出会ったとき、ひとつひとつの所作、音楽の流れ、音色、あまりにも自分と異なる細かな神経に驚嘆する。
いったいどれほどの年月・心血を音楽に注いだら、この域に達するのだろう。その実感が自らの身体感覚を通じて体感される。
おそらく、それは自らの体験を自らの言葉で語るという、より具体的な言葉を探すことができるだろう。

だから、やってみたいと思った楽器があれば、臆せずやってみて欲しい。
マチュアとして、趣味として、音楽を演奏すること・音楽を語ることに恐れないでほしい。
そうすることで見えてくる憧れとはまた別の言葉、音の世界が見えてくるだろう。

思うに、その良し悪しは別として、音楽は近代技術の発達により、「演奏する・聴く・語る」という行為の分化が進んだ。
その昔、モーツァルトシューベルトやらが生きていたころは、録音技術もないから自らが弾くことで音楽に触れ、音楽を聴き、大いに語り合った。
いつしか、音楽を演奏することは特別な技術を身に着けた人のものとなり、音楽を好き・嫌い以外の言葉で「語ってしまう」人間は、敬遠されるようになった。
そうした行為が分化された時代だからこそ、「語りたい」「やってみたい」という欲に素直に身を任せてみるのも、新たな発見や自らの世界の広がりにつながるような気がする。
それは趣味を持つことの大きな魅力である。

そんな余計なことを、目の前のカオマンガイを食べる瞬間に思うのであった。